2011年08月29日

渡辺麻友 (AKB48)

渡辺麻友

AKB48チームB、並びに派生ユニット「渡り廊下走り隊」のメンバー。
埼玉県出身。
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鷲宮の名主、渡辺氏

埼玉県久喜市鷲宮町上川崎に渡辺氏屋敷がある。

幸手城主の一色直朝には、小田原北条氏に属したため領地を失ったが、
徳川家康はあらためてその子義直に幸手領500余石を与えた。
その弟政義はこの時渡辺を称し、上川崎に土着した。
この時に築かれたのが渡辺氏屋敷である。
江戸期に入ると、渡辺家はこの地方の名主として栄えた。

屋敷址には、往時を偲ばせる明確な遺構を見ることはできないが、
渡辺多門家の楠の木が町指定の文化財として残されている。
中世土豪の居館であったようで、
屋敷址そのものには土塁など明確な遺構は見られなかったが、
外郭部と思われる付近には1m〜2mの高さの土塁が残されている。


渡辺氏の代表的な家紋
・渡辺星
・三つ星
・抱き茗荷

ehanko20080128-2.jpg
渡辺氏の家紋として有名な渡辺星


参考URL
http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/musashi/watanabe.html
posted by ほし at 08:18| Comment(0) | 家系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

篠田麻里子 (AKB48)

篠田麻里子

AKB48チームAのメンバー。
福岡県出身。
img_shinoda_2011_4.jpg

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福岡藩士・秋月藩士、篠田家

福岡藩分限帳には、篠田八兵衛、篠田七郎右衛門、篠田温琢、篠田雲琢、
篠田安右衛門、篠田才右衛門、篠田温仙、篠田正貞、篠田苞、篠田耕造
の名が見られる。
医師を務めていた人が目立つ。

また、秋月藩(福岡藩の支藩)文政分限帳には、御勘定人として篠田幸右衛門
秋月藩嘉永分限帳には、弓組勘定方として篠田猪右衛門
の名が見られる。


福岡県庁に篠田文書という史料が所蔵されている。

篠田文書は、大野城市の篠田清竹氏より寄贈された228点の史料である。
代々旧秋月藩士であった篠田家は、明治維新後の六代篠田定明のときに秋月郵便局、
続いて甘木郵便局の開設当初からの取扱役を命じられ、
その晩年には筑前国三等局長郵務協議会会長を務めている。
また、七代定規も甘木郵便局局長、筑前三等局長会副会長を、八代定明も同職を務めている。

史料は、慶応から昭和43年までみられるが、
明治初期から昭和10年代までの甘木郵便局関係資料がほとんどである。
明治7年「日本帝国郵便規則」、昭和10年前後の「給料精算書」、
明治期「会計日誌」、昭和初期「諸通達綴」などがある。


篠田氏の代表的な家紋
・木瓜
・剣片喰

参考URL
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/f08/shiryougaiyou4.html
posted by ほし at 11:11| Comment(0) | 家系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

柏木由紀 (AKB48)

柏木由紀

AKB48チームBのキャプテンを務める。
鹿児島県出身。
img_kashiwagi_2011_4.jpg

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柏木源藤

南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)の一角に、「武山丈心居士」と刻まれた墓がひっそりと建っている。
江戸時代中期の明和六年(一七六九)に建立されたものらしい。

法名しか刻まれていないが、これは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で、
島津義弘の窮地を救った柏木源藤の供養塔である(『称名墓志』巻二)。
源藤は義弘の家来、川上四郎兵衛忠兄の郎党だった。

義弘率いる島津勢は関ヶ原合戦で西軍に属したが、武運拙く敗北のやむなきにいたり、
義弘は敵中突破による郷里帰還を決断した。いわゆる「島津の退き口」である。
徳川家康は本陣のそばを猛然とすり抜けた島津勢を見て、腹心の井伊直政や本多忠勝に追撃の下知を発した。

徳川の精鋭の追撃は凄まじく、さしもの島津勢もその猛追を振り切れず、
家老の長寿院盛淳、甥の島津豊久(日向佐土原城主)も義弘の退却を掩護しながら、次々と討死した。

主戦場から五キロほど南東に離れた牧田あたりで、井伊勢がついに義弘主従に追いついた。
直政(四〇歳)は黒馬に乗り、白糸威の鎧に銀杏の前立のついた甲冑を着け、
長刀を携えながら、「何をもたもたしておる。兵庫(義弘)を討て」と大音声をあげた。

とそのとき、島津勢の一団から源藤が進み出て鉄砲を放つと、弾は見事に直政に命中した。
直政はしばらく馬上で激痛をこらえたものの、たまらず落馬した。
それを見た源藤は「川上四郎兵衛、討ち取ったり」と、思わず主人の名を叫んだ。
郎党の悲しさで自分の名を名乗るのは憚られたのだろう。

大将の負傷で井伊勢が追撃を断念したために、義弘主従は辛うじて窮地を脱した。
源藤の大殊勲だった。
ときに源藤、二十二歳という。
なお、直政はこのときの負傷が癒えずに、一年半後に他界している。

この手柄ゆえか、源藤は義弘の隠居所である加治木に住んだ。
だが、その後の源藤は不遇だった。
『本藩人物誌』には「逼迫して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」とある。

なぜ源藤は落魄したのか。それをうかがわせるような逸話がある。
『旧南林寺由緒墓志』には、源藤が井伊直政の死去を知ってこれを哀れみ、
「弔死の志をもって墨染の法衣を身にまとい、廻国修行に郷関を出しが、
また帰らず、その終焉の地、果して何処(いずこ)なるか、
勇士の末路、憐れにもまた遺憾なり」とある。

直政の死を知った源藤には、どんな思いが去来したのか。
ほんの一瞬の出来事が徳川四天王と勇名を馳せた武将の一命を奪ってしまったことに、
世の無常を感じたのかもしれず、それが出家と放浪につながったのだろうか。

柏木氏の代表的な家紋
・三つ柏
・違い鷹の羽

参考URL
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-129.html
posted by ほし at 09:55| Comment(0) | 家系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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